2018.3.10

大人と子供の境界線、とは何処だろうか?日本の法律に乗っ取るのならば成人(20歳)が境界になるのだろうが、そうではなく精神論的な話をした場合に子供と大人の境界線は何処か、と言う話だ。これは恋愛論と同じくらい長く考えていた事なのだが考えて出した答えがどれも正解のように思えてしまって、又不正解にも思えてしまって結論は出なかった。
恐らく私が大人になった事がないからなのだろう。ゆっくり、紐解き考えていこうと思う
この世には大人になれ、大人になる、大人になった。などと言う言葉が飛び交うが、子供になる、子供になれ、子供になった。という言葉はまず聞かないのではないだろうか?
それはつまり、何か(大人)から子どもになる事は無いということだ。退化しない、もの。変えられない、もの。と言う常識、ルールが存在している証明だと思う。

大人になった時とは、

楽しい事を楽しいと、悲しい事を悲しいと、強く感情を揺さぶられなくなった時が大人になった時だろうか?それとも、苦痛な事に反抗しなくなり、抗う事を放棄した時だろうか?プライドや感情や思い出より目に見える利益を優先してしまうようになった時だろうか?

それとも、自分より弱い相手を許容して保護して愛してあげられるようになった時だろうか?
又は過去を突き付けられても受け止められるようになった時だろうか?


暗転



私の周りの大人は、現実に絶望して見えない壁を作って夢から遠ざかって、欲しいものもしたい事も分からなくなって、死んだ様に生きた人ばかりだった。怒鳴り声も悲鳴も全部ぜんぶ騒音にしか思えない程、同じ様な絶望で溢れてた。きっとその絶望は私には分からないだけで沢山の理由があったのだろうが、私には分からなかった。私は今でも自分に自信が無いし、だからこそ両親が全て悪いと思えないし、自分が全て悪いとさえ思う時もある。
それは紛れもなく自分が、後ろめたい様な過去が有るからに他ならなく、親がろくでもないとしても、私は【可哀想な毒親の子】ではなく、【親が親なら子も子】でしかないのだ。
私はそれを知っている。そんな事を言われた事は無いが、私自身は何時だってそう思ってる。
アダルトチルドレンだ、と言われるかもしれない。私自身もう殴られ過ぎて頭が可笑しくなってるのかも知れない。正直、私は「さくらちゃんが可哀想じゃない」と中途半端に両親に文句を言いに来る近所のおばさんが嫌いだった。
「殴らなくてもいいじゃない」そう言われると、まるで哀れまれているようで、それにどうせそんな事言っても父親の逆鱗に触れて更に殴られるだけなのに自己満足で偽善を施してどこかへ行くその人が迷惑でしかなかった。
両親にも耳が腐る程言われたが「うちはうち、よそはよそ。」最後まで責任を取れないのに余計な事しないで、と手を払いたくなる。
それでもそんな事した余計に哀れまれる気がして「少し私がやんちゃし過ぎただけです、気にしないでください」って嘘が上手くなる、どんどんどんどん。怒られないように、少しでも楽になれるように。
だって馬鹿な私には怒られない方法がわからないから。

発達障害診断がされていない、普通の子供と違う育てにくい子供を持った大人が物覚えの悪い子供に強く当たってしまうのと、発達障害診断をされていない子供どちらが悪いですか?
私には何方にも罪はないように思えて、もう正直何が悪いって私が生まれてきたことくらい。
楽になりたい。そう何度も思った。死にたいとか、消えたいとか、そんな解決法ではなく感情として、楽になりたいと。
父親に「何で出来ないんだ、俺を馬鹿にしてるのか!」とよく怒られたけど、本当に数回言い返したことがある
「知らないよっ!私が出来損ないだからでしょっ!!!欠陥品なんだよっ!!!」恐らく、幼いうちに何度か言われたフレーズがずっと頭に残っていたせいなんだろうが、今思えば的を得てるのかも知れない。欠陥品、出来損ない。その通り過ぎて泣けてくる。なんでこうも上手くいかないのだろうか。


それでも、怒られながら殴られながら馬鹿にされながら足掻いたのに未だに私は自分に自信が持てないし不安要素が多すぎて周りに馴染めないでいる。人は私を普通の人だという。ても私は普通なんかじゃなくて、いつかそれがバレてしまうのではないかと常にひやひやしている。
楽になりたいのだ、心底楽になりたい。
こんな自分が嫌すぎて、吐き気がするよ。誰も彼もを愛せないのは自分を愛せないからなのに自分を愛す方法を知らない。リセットできるなら生まれるところから始めたい。全部忘れて最初から。

……そうするとかるびが誰にも愛してもらえない。今日もかるびは私に撫でてもらえるのを待っていたし、撫でてあげると足の上にまで乗ってきたのに。こんなに懐いてくれてるのに、お前くらいだよ。私がこんなに可愛がってやるのは。……おやすみなさい、かるび