2018.4.10

私は物心ついてから8、9歳までで父親や母親と手を繋いで私からしたい話をしながら歩いた記憶が無い。いつも父と母と妹の後ろをひねくれた様に、不貞腐れたように、ゆっくりとその背を見つめて歩いていたのだ。
強く父にも母にも私の事を理解してくれないと思っていたからだろう。そして3人で楽しげに話す様子を見て私は「必要ない人間だ」と思い込んでいた。
今なら話し掛けようと思ったり何を話しているのか尋ねに行くのだろうが、当時私はそれ程強く心を閉ざしており、また友人もいなかった。本が友達。まさにその通りで、クラスメイトと言葉を交わすことは年に数度程度だった。休み時間中も自習中も本を読んでいた。本を読む事が幸せだった。物語へ現実逃避する事で精神を保っていたと言っても過言ではない。父はゲームをしていたり、遊んでいたりすると宿題や学校の事を話題に振ってきたが、本の事だけは咎める事無く、寧ろ褒める対象になったからだろう。決してゲームが嫌いなわけでもなかったが、父には会話をすると毎日のように怒られて居たから嫌いこそせずとも怖いとは思っていた。
父は何度言っても【それ】直そうとしない私にイラつき、良く「怒られるのが好きなのか」と言っていたがそんな事は無い。何故怒られているのか良く分からないから治せないのだ。良く分からないのに怒られる、と言う事実だけが私の中に残り。だからこそ会話を避けようとしたのだと思う。だってなんで怒られているのか分からないのだから。だが、それは恐らく父のせいではないのだろう。私が理解出来なかったのが悪いのだろう。発達障害のせいなのか元々鈍いのかわからないが、両親共に「怒る時に1度目は理由を話した」と言っているので私が何度も怒らせたせいなのだろう。
だから、私は隣を歩いてくれる人が好きだ。隣を歩いて笑ってくれる人が好きで、私の顔を見ながら話してくれる人が好きだ。それでも、目を背けてしまう時もある。
そう言えば、人の顔を見て話せとも良く言われた。人の顔をみて話すことは最初はそんなに苦手じゃなかったはずなのだ。
ただ、怒られたり笑われたりするのを恐れて、相手がどんな表情をしているのかを目撃するのが怖くなったのだ。
それから視線が苦手なのもあった。注目されるのが苦手なのだ、車のライトがあると思う、あのライトがまるで人の目に見えて私を責め立てるように哀れむように見られている気がした時期もあった。
そう言えれば良かったのだが、そう言うのも怖かった。後は「嘘だろ」と信じられないかもしれないという不安もあったのかもしれない。
私は怒られたり緊張したりすると声が出なくなった。頭が真っ白になって何も言えなくなってただ泣きそうになる。否、そういう時はいつも泣いていたのだが。その度両親に「なんで何も言わないの」「泣きたいのはこっちなのよ」と言われたものだ。きっとその通りなのだろう。なんで泣くの、なんで何も言わないのと言われても私だって分からなかったのだ。ただ声が出ないのだ。何を言ったらいいのかわからないのだ。
そんな言い分を信じてもらえる訳ないと私だって分かっていた。記憶に残る限り2度だけ、「何を言ったらいいかわからない。声が出ない」と言ったことがある。巫山戯てるのか、嘘つくなと言われた。そりゃそうだ。私だってそう思う。でも実際そうなのだ。これは物心ついてすぐからこうだったから、声が出ないしばらくの間は自分では何故怒られているのか自分は何をしているのかもよく分からなかった。
上記で2度「何を言ったらいいかわからない」と伝えたと書いたが、勿論声が出なかったのもそれで喧嘩したのも2度ではなくもっと沢山したのだ。恐らく5.6年の間毎日の様に。その間、勿論「何故喋らないのか」と尋ねられる事は毎度だったのだ。最初は何を言ったらいいのか黙りこくっていたのだが、そうしたら火に油を注いでしまうようで父に殴られたり蹴られたりしたものだ。至った結論は振りをしようということだった「悲しいから何も言えない」だとか「何か言ったら怒られると思うから何も言えない」だとか、なんだかんだと理由をつけて謝った。その場を丸く収めた。そうするようになったは7.8歳の頃だろう。元々、して欲しいことやほしいもの、嬉しいことや悲しいことを上手く伝えられなかったから、演技している節はあったと思う。演技していたら丸く収まるから、そうしていたのだと思う。私は知っているんだ、結局「何も言えない私」が悪い事を。だから、それを被害者振って話せない。リアルでこんな事を言った事も無い。幸せそうに笑っているだけで、人は無干渉でいてくれる。私はそれが居心地がよかった。もう責められないで済むことがどれほど安心したか。勿論責められる原因は私にあるのだろうけれど。
父や母は無干渉で無関心な私を嫌がっていたけれど、家族なのにと言っていたけれど、私は今でも干渉されたくなくて、関心されたくなくて、触れないで見ないで聞かないで言わないでと思っている。
後に、「何も言えない」理由は恐らく発達障害のパニック症状(メルトダウン)だと言うことが発覚した。その頃には「怒られるかも」「嫌われるかも」「失望されるかも」「笑われるかも」「間違ったらどうしよう」という思いを抱くことはなくなっていた。とはいえ、多分昔と同じように叱られて蹴られて殴られて壊されたらまた、そうなるのかもしれない。少なくとも学校の、特に実技テスト等の時はよく起こっていた。書き忘れた事だが、いじめよりも私はこのメルトダウンが起きるせいで小学校時代学校に行くのが辛くなっていた。実技テストやスピーチなど人前に立って視線を集めて話すのが凄く苦手てだからといって下を向く勇気もなくて、母親に「学校に行きたくない」と言ったことがあるのだが理由を話しても理解されないかもしれないという恐怖から理由も言えずにいたことがある。勿論その時も両親に問い詰められて「なんで喋らないんだ」と言われた記憶がある。 だからスピーチや実技テストの朝は本当にしんどくて夜も眠れなくて朝が来なければいいのにと祈っていた。
多分友達がいなかったり、好きなことが無かったのも本当は辛かったんだと思うけれど学校には行かなきゃいけないものでスピーチもしなきゃいけないもので、とそうやって自分の中で多分社会の常識というか大体の人間が当たり前にすることをしなければという思いが強かった。だからそれらのストレスや恐怖にばかり気を取られて自分のしたい事が見つからなかったのだろうと思う。
どれだけ頑張っても変われない自分が嫌で消えたくなった事も良くあった。思春期とかいうレベルじゃないと思う。私は小学校に入った時からそうだった。だって父親は「他の子もそうなのか?違うだろ?なんで出来ないんだ」と耳が痛くなるほど言ってきたし、「施設に入れるぞ」と脅されるほどの時もあった。そうしているうちに何となく確かに自分が周りと違う気がして、自分は異質な気がして、自分が劣ってる気がして、人の目を見て話せないとか喋れなくなるとかもそうなのだけれど努力しようと思ってもできないことで。努力してるつもりでも上手くいかなくてそんな自分が嫌いで泣いて眠った。
だから、私は「劣っている」と言うレッテルを今でも背に貼られている気がして劣等感の強い人間になってしまった。人の欠点を見つけてあの人よりそれはできてると安堵して、人の長所を見つけてパニックになって鬱々としている。それでも、足りないから人の欠点を見つけて安堵しても、その人は凄く劣っていただけで私も劣っているのではないだろうか?常人を下回っているのではないだろうか?やはり異質なのではないだろうか?と不安になり、結局しんどくなってしまう。

私は人を見るのが苦手だ、人と関わるのが苦手だ。
人が嫌いで、私も人だ。
本当は1人で生きるべきなのだと思う。それこそ隠居生活でもすべきなのだと。それでも誰かに愛されたいと願ってしまうし、誰かを愛したいと思ってしまう。どうしようもない人間だ。
何がきっかけであろうと、今の私の原因は全て私にあるのだと思う。言い逃れなんてできないのだ、これは父に言われた言葉だったか。そうだったならみゆさんの言うところの、【洗脳】ってやつなのだろうなぁ。でも、【洗脳】されてる私からしてみればそんなこともない気がするんだよ。
今日は長くなってしまった、土曜日の分は後であげる。それでは、取り敢えずおやすみなさい。