好きじゃないけど愛してる

甘酸っぱい恋愛とか汗臭い友情とかそんなものは育まなかった。ゆっくり時間をかけてはじめてもらう愛を体いっぱいに浴びて、与え合って傷を舐めあって生きてた。
生きて、生きた。適度に偽善を施して、それを振り返っては自己嫌悪と僅かなエゴを手に入れて、逃れられない罪悪感を誤魔化して、下手な嘘や作り笑いが上手くなる。
手に入れたものを手放さないように繋ぎ止めることが精一杯、必死に足掻いては下流へ流されない様現状維持。
両親からの癒えない傷も、クラスメイトからの逃れられない嘲笑も全部全部全部曖昧にしてしまえる愛。愛。愛。
私には空が高く遠くなった冬の日の夜、何となくホットミルクを飲んで思い出せる思い出がない。残暑、夏休みの終わりを愛しく憎んだ思い出かない。何時だって必死で全力で、ミルクを飲む余裕も感情を感じる余裕もなかった。常に瞬間的に感じてはそれを忘れてまた歩き出す。
そんな私はやっと愛されて、愛して、人間になって、笑って泣いて怒った。嘘をつく事を辞めて、全てを繕わず、偽らず、合わせない自身の気持ちを真っ直ぐに伝えて、もがいた。
そして深海に沈んで、知ったのだ。沈黙の重さを、言葉の偉大さを、曖昧な笑みの本質を、愛という物の儚さを。
人間なんて矛盾の塊でしかなく、本質を見抜こうとすれば抜けぬ迷宮に深入りするだけ。事実も真実も探すことに意味はなく、信じる事だけが唯一無二の出口であると。
全知を得た人間が存在したのなら、その人間は何を思ったのだろうか?知識等、知識でしかないと割り切れない人間は全知を扱える器ではないと、知った。


さて、前話が長くなってしまった。
「愛しているのに好きでなくなった時」
この言葉の意味が分かるだろうか。分からずとも別にいいのだ、ただ少しこの言葉をここに書いておきたくなった。書き起こす事は、書き記す事は、私の数少ない記憶手段だ。
愛す事が何なのか、暫し考えていた。厳密に言うなら三年程前から現在進行形で、だ。
愛す事を人は「尽くす事」だと言った。「与える事」だと言った。「寄り添う事」だと言った。「許す事」だと言った。
また、私は「本能的な感情の一つに過ぎない」と思った。
小指をドアで挟んだら痛いと思う様に、愛しているというものもそうなのではないかと。
どうしようもない、一つの本能的な何かではないのかと。
さて、なら好きとはなんだろうか?
好きだから愛しているになるのか、と尋ねられると微妙に違う気がした。昔見た記事で「愛は相手に与えたいと思う気持ち、好きは相手から与えてもらいたいと思う気持ち。」と記述されていたのを覚えている。
別に好きでも相手に与えたいという感情はあると思うが確かにその回答は近い気がした。
では、好きではないけど愛している、と言うのは相手から与えられたくはないけど、与えていたいという事だろうか?
それは私の思う愛と好きの回答の半分位だ。
私は本能的な感情を抱いている、つまりは愛しているから相手を許すし、相手に与えるし、相手を見守り続ける。
でも相手を好きかと聞かれるとそれは違うから相手を殴り殺したいと思うし、相手を恨んで、相手に愛想付きてる。それなのに何故愛しているかって、それは本能としか理由がつけられない。もし、それに名前をつけるなら愛何でしょうが。だから、私のこのやるせない気持も、誰にも八当たれない怒りも、全部全部飲み込むしかないのでしょう。
だから、愛しているのに好きだという気持ちだけがすっぽりと消えた時、本当に無気力で虚無で脱力感のある何も無い物が残る。何も、無いもの。それだけが何故か心の中に残ってる。それを穴というのならそうなんだろうし、無と言うならそうなんだろう。
だから、要は恋愛的に好きでも愛せない場合もあるし、恋愛的に好きじゃなくても愛せる場合もある。
愛してると、好きは確立されたものであって愛してる=好きという式は成り立たない。

話が長くなってしまった。
なら、私は何が好きかという話だ。
好きな事が、ない。好きな人が、いない。
突然だが、先日から「好きな物ってなに?」という質問を何度か受けた。確かに手当り次第色んなものを浮かべたが、ない。正直、ない。好きな物、なら渚君が唯一のそれに当たるのだろう。正直渚君に会える日が来るのなら殺し屋でもなんでもなりたいものだ。
好きな事、と言われるとこうやって文字を書くことも浮かぶのだが書くこと自体が好きなのではなく、忘れてしまうから書いているという理由であって、書く事が好きなわけじゃない。
では人、好きな人と言われると今度は誰一人浮かばなかった。別に嫌いな訳では無いのだがその人に褒められたい、何か与えられたい、何か言ってほしい、何かしてほしい。と言った願望がからっきしない。
嫌われたくない、ならある。正直それはだいたい誰にでも嫌われたくなくて誰からもいいように見られたいという節がある。好かれなくていいから嫌わないで捨てないで精神が強く、人を助ける所もその辺にある。嫌われたくないから。
見て見ぬ振りをしたら嫌われる、正直それは父親からずっと怒られたことなのもあって揉め事を放置できない主義になりつつある。理性的には止めようとしてもハメが外れるとつい首を突っ込んでしまう。やめたい(切実)
ひとりが好きな訳では無いし(ひとりの時間は必要)、人が嫌いな訳でも無い(はず)なのに好きな人間は一人もいない。
頼りたいと思えないし、結局誰かに何かを言えるほど強くなれなかったのかもしれない。強くないのに頼らないのも変な話なのだけれど。

閑話休題

昨夜父親から唐突に「お前は頑張っていない、頑張る気がないのなら家を出ていけよ。20歳になったらもう知らんから。生活能力皆無でその辺で野垂れ死んでも知らんから。」と言われた。正直父親がそんなことに気づく前から私は外に行かなければいけないことに気づいていたし、父親と暮らすなんて無理だと知っていたし、野垂れ死んでも構わないと思っていた。家を出たら帰ってきたくないと思っていた。誰と暮らせなくても一人でも別にいいと。こんなんだから、きっと私は誰かに頼る気が出ないんだと思う。父親に頼る時も必ず見返りが求められるし、お礼を言っても文句を垂れ流されるのから。そうじゃなければこうやって突き放されるだけなので彼は子供を無条件に愛すということを知らないのだろうし、私も出来損ないなのでどうしようもないのだ。和解なんて出来るわけがなかった。体を売ってでも外で働くし、死んででも家には帰らない。絶対だ。
ここに書いたのは、忘れない為に他ならないから。私の今の気持ちは絶対忘れないし、父親の言ったことも忘れない。知っていたけど父親はこれからも今までも育てるのは義務だから、では無く育ててやってるからと思うのだろう。
私だって昔も今もあの人に生かされて育てられてる自覚はある。
大人になりたい…。こんなのが続くようなら人生自体を辞めたくなる。好きなことの無い世界で、嫌いなあの人に生かされている毎日なんてしんどい。

でも今死んだらかるびはひとりぼっちになってしまう。そんなのは嫌だからかるびが死ぬまでは絶対死ねない。かるびの世話を誰かに任せるなんて、出来ない。
では、起業の手伝い(店のロゴ作成と印刷物の印刷)があるのでそろそろ終わる。また結論も出ない長々しい話をしてしまった。数年後読み直した時に、今とは違う気持ちをいだけているといいな。