2018.2.15

私は自分が身勝手だと思う。でもそんなのは誰だってそうだろう。どんなに周りを気遣っても、周りは身勝手だと思うだろう。周りだって身勝手だから。ループする身勝手を罪だと思ったことは無い。ただ、それに感情を覚えないと言ったら嘘になるのだろう。

私の好きな哲学者の池田晶子は言葉は命だという話をしている。死を間際にした人や絶望の底にいる人を「救う」ことが出来るのは医療などではなく、言葉だ、と。
私はそうだと思う、少なくとも今の私は強くそれに同意した。その言葉は、今私がここに綴るような聴こえないものじゃなくて、きちんと対面して言葉を交わすという意味なんだと思っている。
私が哲学が好きなのは、結局はそれなのかとしれないと思った。救いたいし救われたいのだ。自分が恐怖に感じるすべての物事から自身を救う理論を立てたい。其れは具体的な解決策とかでは無くて、その物事の本質を知ることでどれ程下らないものなのか、どう対処すべきものなのかを知りたい。何故なら私が怯えるものには姿がないからだ。死にも、言葉にも。他にも私が怯えてるものには姿という姿がない。
父に殴られる、という事が大したことではないと思い始めたのはその頃だろう。所詮それは私と同じ人間が私と同じ様な仕組みで心を動かされ体を動かし、攻撃してくるだけなのだ。そしてそれは、しっかりと私の目に映るのだ。勿論痛い。勿論怖い。でも、怯えてはいないのだ。何度か殴られれば終わるのだ。
話が脱線した。そこで私が何度かぶち当たった壁が心理学だろう。心理学と哲学の差、について心理学の勉強をしていた人から話を聞いたが「人のことを考えるのが心理学、自分のことを考えるのが哲学」だ。そうだ。
この時点で私は自分のことできてねぇやつが人のことなんか考えれるかクソっ!と一蹴して哲学書を読みに戻った。しかし、私の目的には「救いたい」があった事を思い出した。
しかし、本質的に私は人間が嫌いなのだ。人間の話など微塵も聞きたくない。とは言いつつ、話を聞いたら大体の人の苦悩がわからなくもないことが多い。
そっち方面で救う、というとやはりカウンセラーを勧められるがそうじゃないのだ。
別にカウンセリングを否定するわけでもカウンセラーが嫌いなわけでもないが。
ただ、私はカウンセラーは第三者なことを知っている。私のしたい事はカウンセラーとして最もしてはいけない事のように思えた。
そしてそもそも向いてない気もする。
私は哲学も心理学もそうじゃなくても、人が楽に生きられる言い訳になればいいと思ってる。心が楽になるならそれで。でも、勿論傷ついて自分が間違っていると気づく事も必要に思う。それは、確かにそうだ。だから私は恋仲を何度も崖から落としたり、かと思えば優しくしてみたり、肯定してみたり。何がしたいの、と言われたこともある。多分どうしたらどう変わるのか知りたかった。人間1番近いものに影響を受けやすいと思う。恋人なんかは特に相手に好かれたいと思っているのだから影響を受けやすいはずだ。その恋人にしかしなかったしその恋人が1番私を愛してくれたと思うけど、やっぱり別れた。
ここまで長々と話して何が言いたいかというと、特に何もないのかもしれない。
別に具体的に何が伝えたい訳でもなくて、強いて言うならこれを読んだ人の思想に何らかの影響を与えられたらいいなと思う。