関係と名前。

関係の名前という概念について。

私の元カノに当たる紅葉は友人という名前の関係にあたる人がいないと言っていた。
それは彼女の昔の友人、に当たる人物(以下Yちゃん)の影響に他ならないだろう。
なら彼女にとって私は何に当たるのか尋ねた事がある。彼女は「大事なヤツ」と答えた。
彼女には血縁関係、恋人、大事なヤツ、お気に入りしか存在しないらしい。
シンプルな彼女らしい回答だと思う。
彼女も私も大概クズだ。彼女は「大事なヤツ」が困ってたら自分がしんどくない時は助ける。けど「お気に入りのヤツ」は飽きたり都合が悪くなったらもう興味ないのだろう。
大事なヤツは、大事じゃなくなったらその関係から消える。お気に入りだってそうだ。
友達はそうじゃない。一方が友達じゃないと思っても一方が友達だと思っている矛盾が生まれる関係だ。
紅葉のそれは、自分が一方的に抱いている感情名称でしかないそれは間違いようがない気がした。
しかし、逆に言えば紅葉が気代わりすればそれだけで壊れる関係だ。
それこそが、関係に名前をつける意味なのだろう。

「私達友達だよね」

そうやって、関係に名前をつける事で互いに勝手に関係が壊れてしまわない様にしているだけに他ならない。
互いにずっと関係が壊れないと感じていたなら、又は互いに関係を保たなくてもいいと思っていたならそんなものはいらないのだ。

何方かと言えば私は紅葉の意見を推しているし、其方の考えに似ている。

familyが無くなった今、私達3人を繋ぐものがなくなってしまった。勿論そんなもので今更壊れるとも思っていない。だって私達三人が一緒にいたのはfamilyだからでは無かったはずだ。


本当に?


さっきも言った通り、関係に名前をつける以上互いの認識に誤認があっても可笑しくはない。
私は、別にfamilyだからつるんだ訳では無い。2人が好きで、3人でいたくて話していたと思う。そんな時脳裏に過ぎった「familyという関係の2人に聞いて欲しかった」なんて言葉に息を飲んだ。
…思ったより、人はネット上でも兄弟や同盟や家族や友達という肩書きに影響されて生きているのだろうか?

例えば、私のLINEの友達リストには42人の友達がいる訳だが内20人は公式。
えげつない事を言えばその中で、私が苦しいと思った時それを打ち明けて分かって貰いたいと思う人、は4人しか居ない。分かってくれる人、は1人も居ない。それでも話したい人、は1人居る。その程度なのだ。友達と定義できる人は何十人といるが、大事な人はたった十数人だろう。なら大事じゃなければ話を聞かないのか、何もしてやらないのか?と聞かれれば違う。関係なんてものは一括りになにかで言えるものじゃない。私には、友達だから聞いてほしいとか、familyだから聞いてほしいと思えることが無かった。2人に話したいことってのはfamilyだから、じゃなくて2人という人間に話したい事だ。2人に同時に話してたことが多かったのならそれは私の中で2人に対して聞いて欲しかったことや抱いていた感情が近かったからだろう。

でも、2人がそうだったのか私は知らない。
そしてそれを聞いた方がいいのかも良く分からないでいる。
言葉を交わさないことで起きる矛盾や摩擦は知っているのに。

嗚呼、本当に、臆病者だ。