2018.1.7

頑張っても頑張ってもゴールの次にゴールがあって、そう思うとゴールなんて名前の壁にしか見えなくなる時がある。でもそのゴールを決めたのは私なのだろう


いじめはあった、でもそんな事くらいで学校に行けなくなるほどやわでもないはずだった。ただ、一ヶ月の入院が終わって発達障害の診断を受けた後だった事もあったと思う。今までだっていじめられた経験はあったから余計。なんとなく、全部自分が悪かったのかもしれないと思った。勿論いじめてきた奴は悪いのだろうけどその原因を作ってしまったのは私で私は、本当は虐められて当然なんじゃないかという仮説が出来上がってしまった。元々昔から少し自分の中にあった可能性で、診断を受けて追い打ちになったのかもしれない。
元々学校は嫌いだったけど更に自分を追い込む材料となった。
お腹が痛すぎて学校に行けなかったり途中で気持ち悪くなってしまって歩けなくなったり。行っても昼までいれることは殆どなく登校後直ぐに38度前後の熱が出るようになった。
保健室の先生も私を厄介払いしたがってた。丁度紅葉とも上手くいってなくて。何処にも居場所がない気がして、結局二学期は行かなかった。ちょこちょこ登校はしたんだけど後ろ指を刺されて笑われるたび、破壊衝動に駆られて人を殺しそうになった。殺さずともカバンを投げていたかもしれない。
私は悲しくなって俯いて黙り込んじゃうタイプじゃないから、怒りに任せて体を動かしてしまう。今は外にも出ないしそんな事もしないから筋力も落ちて全然恐くないだろうが。昔は置き勉するな、と言われたら大真面目に受け取って毎日それを抱えて帰宅登校していたような人間だ。そこそこに筋力があったし、今より細かった気もする。体重なんて気にしてないから詳しくは知らないが。
昔色々暴れたり悪さして先生に呼び出されたりもしたが、残念ながらその程度でどうにかはならなかった。先生には基本的に何かしたりしなかったが、私を悪意を持って邪魔してくる奴らの筆箱を二階からぶん投げたこともあった。
確かに投げた後もニコニコしてる私は今思えば人間味がなくて子供らしさに欠けたかもしれない。でも、こういう所は対して悪いと思っていない(おい)
だけどその悪意を持って邪魔をされた理由が私が、無意識になにかしてしまっていたのだとしたら?と不安になったのだ。
それは罪悪感ではない。でも、この先も私の無意識のせいで同じような事があったらどうしようという不安は拭えなかったし、紅葉とも不安だった。
私は紅葉に何方かと言えば何かを教えてきた。だから、もし私が間違ったことを言っていたらと思うと更に不安になった。今思えばそんなのは私が言っても彼女が間違ってると判断したら行動にならないのだから、気負う必要は無いのだが。あの時の私はそのきっかけになってしまった事にさえ罪悪感を覚えたのではないだろうか。
私は人より敏感に何かを感じられて、人より感受性が強くて、人より自分に自信がなかったから簡単に、酷く、自分を責めたてて苦しんだ。
でもその事実さえ人にとっての害でしかないと知っていたから、私自身の中で全てを終わらせた。
有りもしない事実や罪に自身で自身に罰を与えて誰もそれを知らなかった。
そんな事になんの意味があるのかと言われれば、答えることは出来ない。でも、私はそうやって生きていた。
人間に優劣は付けられない。でも、人間は人間に無意識に優劣をつけて生きている。
私はそれを知っていた。
無意識につけられる優劣に敏感に気づいてしまう私はすぐ弱くなって人に絶望した。一番じゃなきゃいけないわけじゃない。でも、一番だよ、なんて嘯く人々を許せなかった。そうやって心のせまぁい私は些細な不満を募らせて何処にも吐けないで人間という一つの種族を嫌った。
人間らしく嘘がわかりやすいのが嫌だった、人間らしく思考が読みやすいのが嫌だった。命を持たないロボットのように効率的に機械的なものが好きだった

でも私の好きな人は、至極人間らしい人だった。女らしくて人間らしくて、そんな人を好きになった自分のことが最初はわからなかった。だってそれは私の嫌いなものだったはずだからだ。
きっと、好きと嫌いは表裏一体とは真実なのだろう。私の好きな部分も嫌いな部分もその人ののそれだった。

どんなに苦しくても実らなくても、私は人を愛せたことを今は少し幸福に思える。

話が脱線した、無意識に人間に優劣をつける人間は罪だろうか。きっと違うと思う。全部一人間の価値観から生み出された貸しだとか、恩義だとか……愛、だとか。そんなものに影響される一つのアクションだ。それを罪だというのなら人間という存在そのものが罪だろう。否、私はそう思っているのだが、客観的に論理感を用いて見ればそれは違うのだろう。
まぁだから、私はその行為そのものは仕方の無い事だと自覚していてその上で人間を許せずにいる。これは、理解より感情が上回った時に起きる矛盾で私はいくつもこの矛盾を抱えて生きてきた。
というかこの矛盾こそが私を構成しているものだと言っても過言は無い。
若しかするとどんな人間だろうとそうなのかもしれないが、それに気づかぬだけなのかもしれない。兎にも角にも、そんな矛盾で構成された私は人間を嫌悪し、愛している。



閑話休題


過日、とある友人に『私が何かに影響されて性格から嗜好に至るまで全てが数ヵ月後に変化していたとしてそれは私と言えるのだろうか?』と問いかけた。友人は暫く考えた後『それは君だ』と答えた。私は『私は私では無いと思う』と友人に返した。
そんな私は思う、ならば『私らしい』とは何だろうか?『私らしい』と言うのは私という人間に確立した性格や嗜好、つまりは人格が存在したことになる。その人格そのものが変わってしまった『私らしくない私』というのは私だろうか?
ならば私らしいという言葉は存在していいのだろうか。先程の仮説に戻る。
何らかに影響される前の私と関わった人間の言う『私らしさ』と
何らかの影響を受けた後私と関わった人間の言う『私らしさ』が存在した場合、どちらの私らしさが正となるのだろうか。