2017.10.30

I thought as much.

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症状 服用薬 服用量
頭痛

15:10起床
およそ8時間睡眠

日記

今日もとある人のブログが更新されていて、つい覗いてしまった。
否、ついという表現は正しくないかもしれない。ブログ更新の横にお節介と書かれていて一瞬押すのを躊躇ったけれど押したし、読むのも3行目まで読んでこれ私の事っぽいな…と思って辞めたものの好奇心に勝てずまた開いてしまったのだから。
此処にその返事を書くつもりは無い。と言うか書く勇気もないが正しいのかもしれない。抑あれはお節介なのでお節介になにか返すのも変な話なのだが。そして文をすべて読み終えた時凄く苦しくなって泣きたくなって最後に笑いが込み上げてきた。
もう、一人で百面相状態だ。
私は今の私を創り上げるまでに何度も思考してきた。何度も何度も色んな未来をシミュレーションして。
それに例外は無く、私もよくツイートや投稿等を書いては消すを繰り返す。それは昔の方が回数が多かったかもしれないが今も良くある事で、ブログにも言えることである。また行動等が鈍いのもそのせいだと思う。これをこうしてこう動いたら誰はこう動いてこうなって、そうしたらこういう風に思われる。等そこまで考えて行動しようと思うとどうにも鈍くなるし頭が働かない時は本当にダメだ、すぐ転けるし上手くいかない。
私は可能性を全てあげ、その中からの最善策を選ぼうとする。勿論其れが最善策かの答え等一度も出たことはないし、ましてや選択した時点で最善策だったものが選択後に変わることなんて日常茶飯事で私が間違ったと思っていた答えも私の体が機能を全て停止する頃には最善策だと思えるのかもしれない。
でもそれがきっと全てなんだろう。死ぬ瞬間が、全てなんだろう。
そうは分かっていても私は自分を偽り、愛を求めて、嗤う。何度も何度も繰り返す。
自分の大切なものを否定されないように大切なものを作らない子供の様に。
自分の大切なものを壊されないように自分の大切なものを大切だと言わない大人の様に。

偽物の自分で誰かと笑っても楽しくない事も、気がついていて其れでも隠していたい。全て隠してしまいたい。
馬鹿だと思う、でもそれしか見つからなくて、それしか馬鹿な私には答えが出せなくて。

私は「いい子になるから捨てないで」ということさえ出来なかった。
「いい子になるから捨てないで」と言って重いと嫌われるのが怖かった。でもいい子になるから捨てないでと思っていた。そう言えるなら言いたかった。捨てないで欲しかった。
「好きだ」と好意を伝える事さえ迷惑でしかないと思っていた。
「友達が欲しい」「一緒に話そう」「今日は晴れてるね」沢山の言葉は頭に浮かんで声に出そうとしては消えた。流石に今はそこまで酷くもないが昔はそれさえ言うのが怖かった。もうどの言葉も私がかけてはいけない気がして口を閉ざしては笑った。

人を怒らせた時何か一文字でも言葉を発するのが怖かった。
「ごめんね」は謝って許しを乞うだけの言葉。
「何がいけないの?」は自分の非に気づけていない証拠。
泣くのは自分の弱さの象徴。
これは教訓だ。物心つく前からの。

家に来ても学校にいてもここに居てもずーっと、私に誇れるものなんてないし私の存在が恥な気がした。
今もそれはあまり変わらない、沢山の環境が変わって沢山の人と話せて人に好意を抱かれても未だ、私は変わらない。
誰かにそれを否定されても只の慰めや建前な気がして疑うと言うよりは最早聞き流している。可愛いね、や綺麗だねとかその類の言葉も全部そう。聞けば、そうであればいいなとは思うけどきっと全部建前だし慰めで。心
底自分がひねくれてるとは思うが、それでも思えないものは思えなくて『そんな事ないよ』とか『有難う』ッて笑ってみせる

私をここまで、人と話せる所まで変化させた物は「諦め」と「無関心」だ。諦めと無関心が私を育てた。本当の自分を見せる諦め、本当の自分を他人に評価される事への諦め。自分の評価への無関心。他人からの視線への無関心。
其れ等が何も言えない私を強くして、又弱くした。「偽物の自分を否定されただけだから。」そう言い訳をして。「他人からどう見られた所で俺には興味無い」そう意地を張って。自分に言い聞かせるうちにそれは何だか本当にそうなような気がしてきた。

そうやって創り上げた自分と笑った人達。
勿論すべてを偽ってる訳では無いし、ただ本当に言いたいことはあんまり言えなかっただけ。
好きだとか、苦しいとか、悲しいとか、嫌だとか。そういう自分の否定されたくない部分を隠しただけで、否定されてもいいと思う部分は隠さなかった。
でも、時々誰かに、否創った自分と笑った人達といるとその隠してしまった部分もこの人達に理解して欲しい、聞いて欲しいなんて欲が出てくる。
きっと表の垢でそれを呟いてしまうのもそのせい。欲はあるのに怖くて、偶に理性がぶっ飛んだ時に其れを吐き出してしまうとどうしようも無さとやってしまったという後悔で苦しむのだ

最後に私の胸を打った池田晶子さんの言葉をここに引用させてもらいたい

ありのままの自分なんか見せたら、嫌われるかもしれないって?
かまわないじゃないか。ありのままの君が嫌いな人とは、友達にならなければいいだけじゃないか。

14歳の君へ/著作:池田晶子

この言葉は2年前絶望のどん底だった私が理解したいと思った言葉だった。意味を理解できた今の私はまだこの言葉のように割り切れないでいる。
何時か、否、そんな曖昧ではなく、出来るなら明日にでも…そうじゃなくとも一刻も早く私はこう思いたい。思える様になりたい。

この話はここまで。
なんだかキリが悪いけれど、これ以上話する事も余り意味は無い。答えが出たらまたこの話をしようと思う。

呪い、を信じているだろうか。
何故唐突にこんな話をしだしたかというと『呪い 掲示板』の検索に引っかかった知恵袋にこんなことが書いてあったからだ。
f:id:fuckdestiny:20171031041527p:plain
何故検索したか、と思ったかもしれない。安心してほしい、私は呪いを信じてはいないし呪いたい人物もいないのだ。
ただ、この記事を読んで何となくこの人は綺麗な心を持っているのだなぁと思った。呪ってやる等と巫山戯て言うことはあるが呪うという定義を私はよく理解していない。例えば私が念を込めて「菫ちゃんしねぇぇしねぇぇ!」と心の中で1日中思ったとする。それは呪いだろうか。
また、此方が悪意のない人間をターゲットにネットに書いてあるような儀式を行った場合は呪う意思がなくとも呪いになるのだろうか。
悪意を持つ事等人間なら誰しもあることで、其れを文字にするかしないかの差だと思う。この質問の回答の中にそれを書いて、実際に殺人を犯さないのならまだいい方なのでは?と書いている方もいらした。
私はそれを読んで暫く考え込んでしまった。何が正しいだとか間違いだとかは私はよくわからない。
私の母は義母によく虐められていて、凄く義母が嫌いだ。昔母の携帯に「呪いのアプリ」がインストールされているのを発見した。1 日で消えていたので母に聞いてみると「飽きた」の一言だった。呪っても意味は無いしむしろ呪うくらい嫌いな奴のために時間を費やすのに飽きた、そうだ。其れを大人だと言うのか、または悟りだというのかは知らないが、確かに呪う事で嫌な相手の事をずっと考え続け、更に嫌いになったり憎悪が増すのではないかと言うのは思う。
それを見た時の相手の事なんてどうでもいいが、自分の時間をそいつを思う事で消費していくのは大変勿体無いし、其奴をどうでも良くなって他の人間や物事に熱中したいと思った時あの時間を無駄にしなければ、という後悔への一歩な気もする。
そしてまたその相手を恨むのだろう。悪循環だ。

まぁ私は出来たら悲しみも苦しみも憎しみもない世界で誰も嫌わず憎まず、優しい言葉だけをかけて生きていたいなんていう頭お花畑野郎なので呪うことは無いと思う。

さて、菫ちゃんとゲームをしているので…また明日。